講談国の人びと

講談研究家・吉沢英明氏のブログです。
日本講談協会が管理運営して居ります。
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講談国の人びと(31) -大島伯鶴の写真-



 故神田山陽に絶大な影響を与えた一人が二代目大島伯鶴(明治12〜昭和21)である。
 この写真の会場は不明であるが、地方の公会堂の類と推測、昭和も戦前期で今となっては珍しい「資料」と考える。壇上中央にマイクを前にして伯鶴得意のポーズ。ダブルと蝶ネクタイで胸に大きな徽章、これは特別出演の証しである。背に金屏風を回し、その後ろにはドでかい日の丸。壇上左に松の盆栽…、これは現今の浪曲大会等でもよく見られる趣向である。そして右端の幟(めくりにしては大き過ぎる)に 講談 義士外伝・天野屋利兵衛 大島伯鶴 と墨書してある。聴衆は写真で見る限り全て和服、然もご婦人が多い。何かの式典の余興として伯鶴が呼ばれたのであろう。この人の父は名人伯円の弟子で初代伯鶴。日清、日露戦役を読む際物講談師、従軍講談師としての知られた。伜の二代目は独特のギャグ(例えば「寛永三馬術」の曲垣平九郎。愛宕山の山頂に到達すると、歓声が太平洋を越え遠くアメリカ迄達した…)で大衆に愛され、色物席やラジオで人気があった。相撲講談も得意で国技館は木戸御免という塩梅である。
 さて故山陽は度々この人から教えを受けたと、「桂馬の高跳び」は当然として「講談研究」所収『私の履歴書』にはっきり書いている。例えば松林伯鶴(後に初代大島伯鶴)の「女天一坊爆裂お玉」→二代伯鶴→故山陽→一門という形で現在も立派に生きている。「笹野権三郎」の内海賊退治も神田紅等が面白く演じているが、まさに伝統芸、100年前の芸、を現前に見るが如くである。

(追記) 
「越の海勇蔵」(力士伝。背の低い勇蔵は頭髪=さかやき=の頭で谷風のヘソの下をコチョコチョ…)は元来暗い話で二代目伯鶴が面白くした。この滑稽譚を山陽が学んだという(現神田照山の証言)。筆者は昭和40年代の本牧亭で背広姿の二代目痴遊や邑井操を聴いている。照山によると故山陽も背広姿で演じたことがあるという。周知の通り、先代馬琴のギャグはこの伯鶴に拠る所が多い。

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講談国の人びと(30) -「むらさき丹次」など-

   
 今でも盛んに読まれている「は組小町」の作者・小泉長三は多くの書き講談を残した。最近骨董市で求めた「キング」第七巻第一号(昭和六年一月)にも、その「むらさき丹次」(短編講談)が掲載されている。粗筋は次の通りだ。
 雪の浅草田圃、泥酔の浪人が三河島辺りから来た百姓に乱暴狼藉、突き当って下駄の鼻緒を切ったという。吹雪の向い風、饅頭笠を傾けての急ぎで前が見えなかったのである。浪人は刀の柄に手を掛ける…。そこへ(下谷坂本)三河屋と書いてある番傘をさした丁稚小僧が現れた。使い先きであろう十二、三歳の少年で −小父さん、堪忍しておやんなさい− 。浪人は −小僧、汝がこの親爺に成代って詫びるなら、この下駄の緒を直せ、すれば勘弁してとらせるー 。百姓は遁走。小僧は小鬢(こびん)の毛を掴むと、ウンと力を入れベリベリと引抜き、血だらけの毛を出して −小父さん、これですげると大丈夫だよ−。にやりと血まみれの顔で笑った凄さ。浪人は酔いも醒め、逃げるようにして立去った。
 それから二十年経過。寛文年間、江戸で評判の侠客・丹次は右の小鬢に紫色のアザがあるのでむらさき丹次と呼ばれる。益々売り出す。或る日、一層零落した彼の悪浪人が何も知らず物乞いに来た。浪人は事情を知って大驚 −あ、それでは、あの時の小僧は、− 。以後改心、丹次の子分になったという。
 講談には小物(こもの)が体を張って年長者を諫めるとする話が多く 一心太助(皿を全て砕いて御意見)、鈴木久三郎(鯉の御意見)等は広く知られている。また大久保彦左衛門(将棋の− 、木村の梅)や曽呂利新左衛門(柿の− )にもある。
 一般に書き講談、大衆文学と呼ばれるモノには講談からの影響が多く、長三も従来の演題を念頭に入れて創作したものであろう。因みに本号(七の一号)には 噫無情(外国講談と角書。−狼の如く猛く、狐の如く執念深い鬼警視ジャンベルの率いる警官隊に包囲されましたジャン・バルジャン、足手絡ひの八歳の少女コゼットを伴いまして、絶壁のやうな高い練塀を乗越えてプテといふ女の修道院の裏庭に逃げ込みました− 。二代山陽が得意にし、その一門が継承している)=天狗太郎、関口弥太郎(武勇講談)=大河内翠山、日本一の果報者(日本一小説)=坂東太郎、徳川家康(偉人小説)=菊池寛、黄金仮面(探偵小説)=江戸川乱歩 等が併載されている。この内太郎作品は明らかに「本間の革財布」の二番煎じ、寛の家康の内前半は「鈴木久三郎鯉の御意見」からの借用に過ぎない。芥川賞、直木賞の創設者である大センセイにして斯くの通り、他は推して知るべしである。講談師は偉大なり。筆者の日頃敬愛する神田松鯉師の如きは日本ペンクラブの会員で、俳句の選者も務める。またその講演を国の機関がセッセと録音しているではないか。兎にも角にも偉い、先生なのだ!再び絶叫、講談師は下駄取って呉れのセンセイではない、尊重せよ、もっとエライのだ…(だから売れぬのだという陰の声あり)

  (図版説明) 上は「むらさき丹次」の挿絵(石井滴水)で丹次と浪人、先方に消え行く百姓。下は「徳川家康」の挿絵(小山栄達)。久三郎は斬られる覚悟で家康に御意見。家康は −鈴木もう下(さが)ってよいぞ、鳥を捕った者も濠(ほり)へ網を入れた者も、軽きに依って、処置するから安心せよ− 。

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講談国の人びと(29) -勝田新左衛門-

            

 「講談倶楽部」や「婦人倶楽部」で知られた講談社は大正三年、小学校の高学年向きに 「少年倶楽部」 を創刊。偉くなり度い立派な人になり度いと願望する少年諸君(注 同社の発行する東京通信にそう書いてある!)の大歓迎を受け、昭和も戦後迄発行された。戦前の同誌には当然ながら講談の影響下に書かれた新講談の類が毎号の如く掲載されている。総て昭和五年であるが、例えば新年号に○誉れの乗っ切り(武士道講談。注 阿部善四郎忠秋の隅田川乗切)=大河内翠山(注 子息が故大河内一男東京大学総長)、四月号に○天晴男兒の一念(立志講談。注 祐天上人伝)=狭間祐行、五月号に○獅子王陣幕(相撲講談。注 幕末の陣幕久五郎伝)=粟島狭衣(注 大関・綾瀬川の子。娘が大スター・栗島すみ子。親子三代が有名人とは珍) といった塩梅である。そして七月号(第一七巻第七号 昭五・七)には小説家、劇評家として知られた中内蝶二の○勝田新左衛門(目次の表題に義士講談と角書) が掲載されている。梗概を記す、

 

 赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、遠乗りを兼ねて和田の原観音に参詣。帰りは突然の雷雨で、主従五十余騎は大混乱、殿が気付くと従う者は足軽の勝田新左衛門唯一人になっていた。感激の殿は直答を許し、後日取立てると約束、その証拠として腰の印籠と刀に挿した笄(こうがい)を与え −いかやうな事があらうとも、予が取らせたことを構へて口外致すまいぞ−(注 引用は原文のママ) 。勝田は母に報告、二品 −印籠は近江八景の金の高蒔絵、又笄には同じく黄金で違い鷹の羽の(浅野家)定紋をちりばめてあります−は箱に入れて秘蔵、神棚に供えて朝夕拝することにした。さて、その年の冬母が重病、薬代が一両二分とか。勝田は是非なく印籠を城下で質入れ。お陰で母は全快する。或る夜、殿の居間に賊。お手元金や御道具が盗まれていた。奉行が密かに調べると質屋・美濃屋に殿の印籠! 賊は孝行者、忠義者と評判の勝田と判明する。直ちに捕縛、白州でお調べ。その留守に家捜しすると神棚に笄。勝田は殿との約束もあり、出所を口外しないので拷問、無理矢理爪印を押させられた。一方殿は勝田の一件を聞いて落涙 −かほどの忠臣を家来に持ったかと思ふと、予は嬉しさ余って涙がこぼれたのぢゃ− 。再吟味。勝田は殿のお許しがあったと聞き、遠乗りの一件から総てを正直に話し、青天白日の身と相成る。忠臣は孝子の門より出ず…、殿は改めて城中に召して禄高百石の御小姓頭に任じ、正宗の銘刀を下した。元禄一五年一二月、赤穂浪士の討入り。勝田は恩賜の正宗を振りかざして、華々しい功名を表した。

 

 モウお気付きの読者も多いと思うが、この挿話(拝領の印籠が後日の災い。母の命に代えられずに質入れ。死んでも口外せぬ覚悟)は「寛永三馬術」の内  筑紫市兵衛(宇都宮時代で仲間市助)伝 からの転用であって、本来の講談とは異なり中西の新作である。講談師の語り継ぐ勝田は大根売りに変じて苦労。討入り前日に立派な姿で妻子に仕官の旨を告げ、敵討の話など一切無く平然と立去る。舅の大竹重兵衛は怒るが、翌朝事実を知って仰天。娘(即ち勝田の妻)と孫を連れ泉岳寺で勝田に詫びた。以上が今でも読まれている方のあら筋である。参考に記すが八月号に○戦国豪傑双紙(武勇講談。注 亀田大隅と塙団右衛門)=鶴見欣次郎、一二月号に○意地の大蕗(教育講談。注 佐竹右京太夫義和)=鶴見欣次郎 等が掲載されている。また有名な 山岳党奇談(注 鞍馬天狗)=大仏次郎、 敵中横断三百里(日露戦争事実物語)=山中峯太郎 も連載。図は七月号の表紙(斎藤五百枝画、題して楽しき旅)と本分(挿絵は石井朋昌描く、吉良邸に討入った勝田新左衛門)の一部。

        

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講談国の人びと(28) −新門辰五郎−

 火事と喧嘩は江戸の華… 火消しに関する講談は三代神田伯山の「日本銀次」や「野狐三次」が知られている。浪曲では現浦太郎が、先代から継承した「三次の木ッ葉売り」等 を今でも盛んに演じている。服部伸は小泉長三の新作講談「は組小町」を晩年迄読み続けていた。さて、幕末に知られたを組の辰五郎について、「新撰東京名所図絵」第三編(浅草公園 明治三〇・一)は次の如く記す。

 −新門 西方の門なり。今はなし。慶応の前後侠名を天下に轟せし新門辰五郎といふは。実にここに住せしによれり。信夫氏が新門辰五郎の伝に。辰五郎は。浅草防火丁長也。居子金龍山之新門。人呼曰新門辰。任侠自喜とあり。証すべし−。辰五郎の遺跡は浅草寺本堂西方に現存するが、その伝は極めて早い時期に講談化された。例によって講談師の作であるが、その一つが石川一口の「新門辰五郎」(吾妻侠客)である。

 一口は師の一夢と共に度々馬道にいた辰五郎(ぢいさんとルビ)を訪れ、その話を聞いて講談にした。故に出駄羅目にあらずと断じている。蔵前・黒船町で知られた煙草問屋村田屋の職人、中村屋金八(下谷山崎町に住す)の伜として生まれた。前名金太郎。後に縁家である町田仁右衛門方の養子となった。寛政十一年三月の出生。その月が辰の月に当ることから後に辰五郎と改名する。明治八年九月に七十七歳で没した。以上一口が本文で述べている辰五郎の経歴。次に彼の「創作」になる講談の概要を記す。お玉久次郎が中心で、辰五郎とお六の助力で二人が結ばれるとするのが本旨である。臥煙(火消し)としての活動や徳川慶喜との関係は終局で述べる程度、「慶応水滸伝」とも称する。


 天保十三年正月、日本橋通り三丁目の金貸し・角屋久左衛門の伜、久次郎(業平息子)は小僧の長蔵を連れ、これは内緒と馬道から北に向った。と、先方から酔払った金次、銀蔵、市九郎という三人の無頼漢。忽ち喧嘩を仕掛ける。流石は玉川上水で手水(ちょうず)を使った長蔵、市九郎のキンタマを、一生懸命にグウーッと締め上げた。が、久次郎は散々殴られて風前の灯火。そこへ −芳年が描いた近江のおかねも、二三丁手前から顔を背けて逃げ出さうと云はうか、普賢菩薩の寝起きの姿(さま)と云はうか− 実に艶麗(あでやか)な婦人、稲屋のお六が現れて助けた。新門の子分・八百屋の平兵衛、を組の喧嘩の伊八も来た。伊八は姐御、後は私等(わっちら)が引受けました、こいつ等を吾妻橋に投入れて、水雑炊を食わせましょう。見物人はお六の立ち回りにうっとりだ。早速角屋から番頭の和平次が稲屋(待合茶屋、新門の妾宅でもある)にお礼の挨拶。仕事で来ていた −当番継なぎの長半纏、襟には白抜き十番 印しは新門辰五郎、粋と意気地の伊達姿− が喧嘩の?末を話した。が、蔵前に行った筈なのに、何故馬道迄来たのか番頭には理由が分からない。久次郎は語る。元日本橋品川町に角屋の貸家があり、武蔵屋庄兵衛、おつま夫婦が住んでいた。その間に出きたのがお玉。天保五年に火事。お玉と久次郎は土蔵の中で震えていたが、その内退屈で××した(注 赤裸々で具体的には書けない)。程なく庄兵衛一家は零落、お玉は吉原で芸者、二人は去年から密かに会っている…。親には内緒、金をくすねて身請けする積りだ。番頭は呆れて言葉も出ない。処が銚子生まれの飯沼の助蔵がお玉に夢中で久次郎が邪魔、悪漢共に襲わせたのである。辰五郎牢は −番頭さんは何うか其辺処(そこんところ)はよく談合(はなし)を纏め 仮りの親でも拵へた上、夫婦交情(なか)好う末高砂や目出度う納めることこそ貴方も忠義だらうと思ひまするが− 。 

 身請けの交渉はこのを組(火消し)の辰五郎が引受けた。若旦那はい組の頭・新吉や棟梁の辰三等に守られて帰宅。助蔵は三人の「仕事」が気になるが、お玉に会おうと取り敢えず例の料理屋、朝顔へと急ぐ。−只今は其跡はございませんが、天保時代には、大変にこの朝顔が流行(はやり)まして、上等(いい)客は其都度当亭(ここ)から検番芸妓(しゃ)杯をあげて騒ぎなすッた (略) これは確かに一口(わたし)が、新門の辰五郎(おぢいさん)から直接(ぢきぢき)に承はッた話でげす− 。−新門(辰五郎)は 上野東叡山の御用請負、尋(つづ)いて伝法院のお掃除役、十番を組の頭と三役を兼帯して居りますから、浅草の門は自由自在に出入りが出来ます− 。辰五郎はお六に一杯注がせ、家を出ようとしたら幇間の桜川新孝が来た。桝見屋(検番)の天人お玉の一件である。浅草・河村屋の徳二郎、橘(立花)様の火消し部屋にいる纏の佐吉が、庄兵衛夫婦の所へ来て娘のお玉を下総(助蔵の許)へ遣れと、無理難題。どうかお玉と久次郎を一緒にさせてとの頼みだった。さて、お玉は −情夫(まぶ)の角屋の久さんか、又は銚子の助蔵か、茶屋は変らぬ朝顔の、露の乾(ひ)ぬ間の束の間の間も、二度の使を待ち詫びて、今か今かと気もそぞろ、身をば柱にもたせつつ、女心の後や先き、物思はしく襟に顔、さし俯(うつ)向いて悄然(しょんぼり)と、打ち塩垂れて居りました− 。

 朝顔から迎え。相手は開けて口惜しき玉手箱、飯沼の助蔵だった。お玉は嫌な助蔵を振放して逃走、今戸橋から南無阿弥陀仏…。背後に一人の男、コレ姐さん、待ちなせえ。橋場の破落戸(ごろつき)、金蔵院の粉屋の岩だった。岩はお玉を子分(山谷の権六)の家に預ける。翌日、辰五郎が取り返した。忽ち吉原土手で、新門と粉岩の両派が喧嘩。−いま浅草で知られたる、伝法院の裏住居、竈の烟と意気地をば、立てる新門辰五郎其子分の一人(にん)なる を組の伊兵衛と呼ばれたる小僧上りの消防夫(どぶさらひ)− 。破落戸組や粉岩の子分共が、を組の奴等を殺せ。八百屋の平兵衛は二四、五人を連れ、破落戸組に血潮の雨。遂に助蔵、粉岩等は逃亡、喧嘩は治まった。辰五郎、新孝のお陰げで目出度く落籍(ひき)祝い、お玉は稲屋に連れて来られた。直ぐい組の新吉や棟梁の辰三に知らせる。番頭の和平次は当分お玉と二親を近くの新道に住まわせ、久次郎が時折通うという事にした。金次、銀蔵、粉岩等は辰五郎の子分となって決着。助蔵は仕方なく銚子に帰った。徳二郎(目明し)は落魄して、最後は辰五郎の世話を受ける。

 天保十三年極月、筑後柳川・橘(立花)屋敷のある御徒町で火事。例の佐吉(大名火消し)と辰五郎(町火消し)が喧嘩、辰五郎は佃島の寄場送りとなった。弘化三年の大火では佃島にも飛火。辰五郎は兄弟分となった小金井小次郎と共に多くの罪人達を救い、油土蔵の類焼も防いだ。両人共目出度く帰宅。辰五郎は角屋久左衛門と和平次の勧めにより、総ての神社仏閣に十番を組新門辰五郎と記して献木(桜)、江戸市中の大評判となった。慶応戊辰に際しては、慶喜公の上洛に従い、人足頭を務める。博奕はせず、明治八年に大往生。

 以上は当人より聞いた事、且つ師匠一夢より伝えられた話を纏めて一席の講談にした=石川一口 大阪・駸々堂 明二七・三 三版。

※表題右肩に吾妻侠客と付記。丸山平次郎速記。表紙は辰五郎と愛妾の稲屋お六。ゲス言葉とスラング(卑語)が頻繁に使われている。− −の部分は引用で原本通り。但し旧字体は新字体に改めた。芝居口調が多い。







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講談国の人びと(27)−拳骨和尚(武田物外)−

担当:吉沢英明(講談研究家)

  講談には当然ながら上泉伊勢守、塚原卜伝、宮本武蔵以下多くの武芸者が登場する。その集大成とも称すべきものが「寛永御前試合」である。三代将軍家光の御前に全国から選ばれた武芸者が次々と現れ、歴史に残る勝負を展開する(例によって大久保彦左衛門が主要な役を演ずる)。然し虚構であって歴史的事実ではない。又岩見重太郎、真田幸村、松平長七郎、笹野権三郎…等英雄豪傑が日本中を廻国、いわゆる「旅日記」の類が無数に出版された。典型的な例が少年読物「立川文庫」(たつかわが正しいがたちかわと呼ばれて全日本を席巻)である。多くの武芸者の中には特異な人物もいた。宝蔵院胤栄は奈良・興福寺の僧でありながら、槍の名手、宝蔵院流槍術の創始者である。講談では宝蔵院覚禅坊、−仏法は釈迦に聞け、槍術は覚禅坊に問え− 、初代神田山陽や四代宝井馬琴の作品が残っている。この類では幕末の奇僧・武(竹とも)田物外も有名。大力の持主で ゲンコツ和尚 として知られている。二代旭堂南陵や二代桃川如燕その他多くの講談師によって読まれた。今回は明治の上方講談本(菊判、玉田玉秀斎講演 山田唯夫速記)に描かれた物外を紹介する。三部作の内最終編を正しく要約。然し荒唐無稽の部分が多く、全面的に信頼は出来ぬが、一つの資料として提供した。

○後の物外和尚

 −初編を「怪力無双拳骨和尚」 中編を「名誉の拳骨物外和尚」と、題し口演 (略)第三編を「後の物外和尚」と、表題を下し本日より伺い続けまする− 。物外は丹波篠山城主・青山稲葉守の御前で、同家勇士と試合をして怪力を披露。これより門下の加賀辰之助を連れ、広島の恩師、伝福寺の観光和尚に挨拶しようと、須磨村の石工・松蔵宅に立寄った。同村の漁師、実は博徒同様の勘蔵が幸太郎の娘お作に惚れ、無理矢理嫁に呉れ。そこで、辰之助が花嫁に化けて乗込んだ。親族のひとりが物外。−アハハハ 驚いたか鬼面勘蔵、我は加賀辰之助と云へる武士だ−。忽ち両腕をヘシ折ったが、子分は一人も近付けない。物外等は翌日出立。岡山、福山を経て鞆の津へ来た。尾道に向う便船が遅れて浜辺にいる両名を嘲笑。頭に来た物外は海中へザンブリ。二百五十人力の怪力、船を浜辺へ引き戻して(注。まるで立川文庫、現実的ではない!)乗った。三原、西条を通って広島に入る。文政九年二月で、不遷小僧は十四歳の時、同地を出ているから十五年ぶりである。観光も喜ぶ。勘当は許され、近く済法寺の住職になる筈。或る日、浅野家指南・加藤新八郎の道場を訪ねて談笑していると、一滴斎河内治郎(柔術の大家)と名乗る武芸者が現れ、傲慢な態度で先生と一手試合をしたい。先ず辰之助が応じ −マママイイイッタァー 。今度は物外、遂に道場荒らしは敗れて弟子を志願する。さて、住職となったが退屈。そこで道場を建て、辰之助とヤッポンヤッポン(剣術)、ドタンバタン(柔術)。続々と入門者、三百人を超えた。すると備中岡山藩の平田剛左衛門(七尺余)という豪傑が来て、力競べをしよう。物外は二十貫もある大石を片手で軽く持って(注。又しても立川文庫だ!)、これを片手で持てるなら道場へ入れてやる。直ぐ消えた。天保年間は日本中が大飢饉、雨が降らない。物外は村人から雨乞いの祈禱を頼まれる。雨乞いは成功。物外は龍神と約束した通り、自ら大梵鐘を海底へと投げ込んだ。後にこれが漁師の網に掛ったので、物外は軽々と肩で担ぎ、元の鐘楼堂へ吊り下げる。尾道・海徳寺で角力の興行。大関・御用木は物外の怪力(柱に拳骨の跡)に大驚、頭を下げた。物外は茶碗を掴んで砕く、十六俵もの米俵を一度に担ぐ…人間業ではない。辰之助に留守を頼んで上京。宿には藤堂藩の柔術指南・河村宗五郎が来て、怪力を拝見したい。余りの怪力に這々の体で逃げた。都を出て、播州三日月から深夜、白旗山を歩く。多数の野猿に襲われている婦人を助けた。愚痴の多吉(酒を飲んで旅人に難癖)を懲らしめよう、四十貫もある大石を二つ肩に引掛け(注。合わせて八十貫、真面目に読んでいられない)、これを運んでくれ。多吉も馬も駄目。心から詫びた。済法寺に戻った途端に、京の荒熊逸東太から病気であるとの手紙。再び飛び出し、明石では酒井家の家老・酒井右近の望みに任せて怪力(千石船のともづなを捩じ切る)を披露。殿は城内で引見、尾道・済法寺を酒井家の祈願所と定める。大阪に着き以前播州北条で助けた、豊後屋鶴吉の女房、町と再会してから三十石船に乗った。逸東太は重態。が、義兄弟である物外のお陰で救われる。物外と逸東太は鴨の河原で会津の武士、四十五人を皆殺しにした。会津藩は兎角朝廷に対して不埒の所置あり、青蓮院の宮も喜ぶ。晩年の物外は勤皇の大義を唱え、諸国大名の間を往来、孝明天皇の龍顔も拝した。長州内乱に際しては調停の勅命を奉じて下向することになった。然るに出発寸前、慶応三年十一月二十五日、突然遷化、毒殺されたという説もある。以上物外和尚の実歴講談はこれを以て大団円=玉田玉秀斎 大阪・此村欽英堂 明四四・十 再版。※表題に豪僧拳骨と角書。
 この御仁は歴史上の有名人で大抵の辞典類には載っている(例えば新潮日本人名辞典)。故綿谷雪が昭和五十七年七月に三樹書房から出した「考証武芸者列伝」の内『拳骨和尚武田物外』が参考になる。綿谷は別の資料を使用しているが、玉秀斎の演ずる大石二つ(八十貫)、御用木の伝承等は既に幕末には存していたようである。
 追記 筆者は花咲一男氏の仲介で綿谷蔵書の内、講談関係(ほとんど武芸物)を譲り受け、大切に保存している。他はほとんど東京大学総合図書館に寄贈されたと聞いた。図は今回紹介した速記本の表紙。本文数カ所に 貸本商 水玉堂 松本 と刻した青印が押してある。図柄にヒゲ等の落書きがある。御手洗を軽々と持ち上げる拳骨和尚。

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講談国の人びと(26) -参考資料 神田社中=定連について-

 担当:吉沢英明(講談研究家)

 本年は二代山陽生誕百周年に相当する。一門ではその遺徳を偲び、今秋特別講談会を開催する由である。そこで今回は、講談史上でも特殊な存在である神田一門に関する資料を紹介することにした。東京市神田区・文光堂が大正元年十月に創刊した月刊誌に「講談世界」がある。「講談倶楽部」に続いて古く、翌年には「講談揃」「講談落語界」が創刊、戦後迄発行された「講談雑誌」は数年遅れて大正も四年のスタートである。その「講談世界」第四年第六号(大正四・六 図版がその表紙)に定連の筆名で 神田社中 と題した一文が掲載されている。短文ではあるが、面白い内容であり、そのまま紹介する。なおルビは廃し、旧字体は新字体に改めた(一部漢字を平仮名に直す)。

 

神田社中 定連

−−神田派の御大は松鯉だが、今はもう伯山が大黒柱になっているのは争はれない。

 松鯉といへば、七十三歳の頽齢(たいれい)をもって、かくしゃくとして意気の壮(さかん)なること、そんじょそこいらの若い連中を愧死させるに足るものがある。本人の言ふ処では、世間では松鯉をしょうりと呼ぶが、自分はまつりと読ませる。「神田祭」この一語だけにも、松鯉の面目は躍如としてあらはれている。

 伯山に就いては更(あらた)めて喋々(ちょうちょう)しなくも、世間様で先刻ご承知だ。あの人気だけでもう沢山だ。芸人の真実の芸の力と、芸の呼ぶ人気との間に、どれほどの扞格(かんかく)があるとかないとか、野暮なことは考へずに置かう。

 神田一派の特色は、伯山一流のばかに歯切れのいい調子でつくす事ができる。弟子が師匠の芸風を模すのは当り前のてっぺんである。併しその間に、漸次自分の芸が熟して来て、師匠を離れて自分の特色を表はして行く人の出来るのは之又当り前の話だ。

 

 伯山の弟子で粒立ったものは、(柴田)南玉になっている来山、伯龍、伯治、松山が改名して伯鱗など、相応に粒が揃っている。併し、その中で、南玉は最初から伯山畑の読物とは離れて早くから望みを嘱されていたが、今ではもう押しも押されもせぬ固まった芸風に進んでいる。その外に、伯山畑の読物から出て別に新しい境に入ったのは、今の所まだ伯龍一人で、他は皆まだ暗中模索の最中だ。果して夫等の人が、何時までも師匠の芸風を真似通して名を為すか、或は別に自分の特色を掴んで新路を見出すか、今の処まだ分らない。伯鯉といふ男は一ばん新顔らしい、そして読物も伯山畑ではないが、調子、いき(・・)は同じ路を辿っているやうだ。併し、読ぶりに癖がないから進境は早いか知れぬ−−。

 

 以上の如くである。参考に同誌に掲載された神田派の人びとの読物を拾うと

○俗謡潮来節(天保水滸伝の内)=伯山 一の一号 ※潮来の遊び

○南部坂雪の別れ(武士道銘々伝の内)=松鯉 一の三号 ※義士伝

○因果小僧六之助(雲霧五人男の内)=伯龍 二の二号

○一心太助(江戸気質)=松鯉 二の四号

※大久保武蔵鐙

○畦倉重四郎(連載)=松鯉 三の三号

○清水の次郎長(侠客伝)=伯山 三の三号○お民七三郎(連載)=伯龍 三の八号 ※いわし屋騒動

○塩原高尾(名妓伝)=伯山 三の九号

○丹後沢だんまり(黒田騒動の内)=松鯉

三の一一号

○小金井小次郎(関東侠客伝)=伯山 三の一一号

○柳沢弥太郎=松鯉 四の二号 ※柳沢騒動○郡山半五郎=伯龍 四の七号 ※大和三人男

○布袋市右衛門=伯山 四の七号 ※浪花五人男

○天一坊=松鯉 四の八号 ※畦倉同様大岡政談

○浅尾の局=松鯉 四の一○号 ※加賀騒動○八百屋お七=伯龍 四の一○号 ※小堀家騒動

 以上ごく一部の紹介に止めた。この内「潮来の遊び」は紅等が、「次郎長伝」は愛山が好演。又「畦倉−」「天一坊」「柳沢−」等は当代松鯉が重厚にして気品に富んだ読口で客席を圧倒している(昔の綽名が皇太子! 当然だ!)。因みに当時の神田派の人々の名を挙げると・・・

 神田派人名簿

  (大正五年十月に東京府教育会が発行した仮題「東京市遊芸稼人名簿」より、抜粋。芸名・本名・現住所の順に記す。順不同)

 神田伯水(古谷福蔵) 芝区愛宕下一ノ四 神田伯勇(藤崎猪之吉) 本郷区天神町一ノ一七

 神田伯山(岸田福松) 浅草区千束町二ノ六一

 神田松鯉(玉川金三郎。但し通常は金次郎) 浅草区森下町一五

 神田伯龍(戸塚岩太郎) 浅草区左衛門町一

 神田小伯山(玉川悦太郎) 浅草区森下町一五 ※後に二代松鯉

 神田伯州(稲生兼吉) 浅草区北清島町七七

 神田伯英(石村利兵衛) 本所区元町二七 ※後に初代山陽

 なお本名簿伯英の隣りに 軍談 高田伯龍(稲益金八) 本所区相生町二ノ六 の名も出ている。
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講談国の人びと(25) -殿様喜蔵-

担当:吉沢英明(講談研究家)

 今回は講談、新講談と称して各種の書き
講談を遺した前田孤泉の作品のうち『殿様喜蔵』を紹介する。原題は 殿様喜蔵の出現(侠客) で、博文館の月刊「講談雑誌」第11巻第2号(大正14年2月)に掲載された。
  例によって粗筋は次の如くである。
  神田白壁町の大工・信兵衛の娘およしは、築地にある杉原筑前守の屋敷へ女中奉公に出た。その内殿の胤を宿し、一旦実家に戻されて男子を生み、竹丸と命名される。今度は乳母の名義で二度目の勤め。信兵衛は喜び、およし親子も幸福な毎日を送る。その内奥方に男子誕生、後年この家を継ぐことになる松若である。一般の常識では実の子を可愛がり、竹丸の方は憎くなるものだ。が、この奥方は心が広く、二子共公平に育てられた。およしは涙を流して感謝。−このままで行けば何の事もなく、従って講談などにはならない−(注、と孤泉は文中で述べる)。(講談は早い)18年の歳月が流れた。竹丸は筋骨逞しい立派な若者に成長。殿もよい世継が出来たとして喜ぶ。その内およしは病臥。若様(実は自分が腹を痛めた竹丸)に全てを話して、帰らぬ人となった。さて、竹丸は母との約束通り、この家を弟の松若に譲らねばならない。何とか「勘当」され、町人になろうと考える。或る日、出入りの大工・岩五郎が来た。普請場で片肌脱いで、煙草をスパスパ。背に金太郎が鯉を捕える刺青。そこで岩五郎を脅かして湯島の名人、刺青師・寂雨の許に案内させる。毎日通って源為朝(強弓で鎮西八郎)の図を彫りあげた。殿は仰天。忽ち勘当され、念願通り?屋敷を出された…。今日は両国橋辺をブラブラ。と、喧嘩だ、喧嘩だの声。仕事師と部屋人足共が乱闘、竹丸も抜刀して暴れる。これが縁で竹丸は甲州浪人吉井勇太郎と名乗り、薬研堀で仕事師の親方、喜蔵(きぞう)の客分として過ごす。勇太郎は子分達に剣術を伝授。程なく喜蔵が病死。勇太郎は皆から推されて二代目喜蔵、遂に江戸でも名代の侠客になって仕舞った。たとえ町人に身を落としても、何処か気品がある、そこで殿様喜蔵と呼ばれるようになった。正月、子分を連れて川崎大師へ参詣。料理屋で飲んでいると、隣りでヒソヒソ話。気になって部屋を密かに覗くと、杉原家の家老・吉田兵部や侍医の螢庵等だった。殿を毒殺…、向島の雪見に連れ出す…、と大変な話をしている。喜蔵は独りうなずき、何事もなく引上げた。正月の11日は、深更から雪。翌日は快晴、向島辺も一面銀世界と化した。喜蔵は腕に覚えのある鉄吉と地蔵の安を連れ、土手の入口で見張りを続けている。昼近くになって七つ八つの駕籠、上り藤に一の定紋、杉原家のものだ!お伴も多く、一行は水神の八百松に入った。喜蔵は追う。殿(家を継いだ異母弟の松若)は、吉田兵部、螢庵等と雪見の酒。あわやの一瞬、喜蔵が現れ −待っておくんなさいまし殿様、その中には毒が仕込んでございます− 。双方抜刀、喜蔵は片肌脱ぎとなって、悪人輩を縦横に斬りまくった。殿は大驚 −やゝ、お身は兄上ではないか− 。喜蔵は人違いであるとして認めず、川崎からの事情を話し、酒宴の邪魔を詫びる。殿は改めて呼び、何回も問い質したが、喜蔵は飽く迄も知らぬ存ぜずで、生涯侠客の名に甘んじた。以上江戸奇侠人の一席。
  明治20年代の速記本として残る、遠山金四郎や根岸善三郎は共に刺青をして家を出た。既刊号で紹介した通り、後に仕官して文身(ほりもの)奉行と呼ばれる。この喜蔵の発端も明らかに以上の先行作品を念頭において、書いたと考えて誤りはない。又大名の家から侠客に転じて市井で活躍する講談に「大名五郎蔵」や「殿様源次」等がある。孤泉はこれ等も承知の上で創作したものであろう。故山陽得意の「大名花屋」は旗本の家(松平)であるが、総領伝之助(伝助と名乗る)は義弟に家督を譲るため消えたとする。これも喜蔵と趣向が酷似している。周知の通り、「講談倶楽部」と講談師との悶着以後 新講談 への要望が一段と高くなった。その上浪花節や活動写真の台頭もあって 旧講談(在来の講談)では満足しない読者も多い。この様な背景があって、書き講談が流行した。然し、大仏次郎等と異なり孤泉の場合、旧講談の範ちゅうの中で書いていたように思われる。その典型的な例がこの「殿様喜蔵」である。因みに本号には他に 飯岡の助五郎(天保水滸伝)=桃川如燕、次郎吉の失敗(文化白浪)=悟道軒円玉、三浦屋小紫(美人)=村上貞川、不思議の眼光(不動明王)=三木初風、侠妓若菊(命がけの)=南晴山 等が掲載されている。
 図は耕達の挿絵。中央に抜刀の喜蔵(竹丸)、脇に驚く殿(松若)。

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講談国の人びと(24) -遠州屋嘉兵衛-

(日本講談協会発行の「山翁えくすぷれす」にこれまで掲載しておりました、講談研究家・吉沢英明先生の「講談国の人びと」を、これよりは当ブログに掲載してまいります。)


担当:吉沢英明(講談研究家)

初代痴遊の「近世名士譚」に登場する自由民権運動の板垣退助は、暴漢に襲われた時−板垣死すとも自由は死せず−の名言?を吐いたとか。その時立会った医官が水沢出身の後藤新平で、震災(大正十二年)後の帝都復興に尽力した。綽名が大風呂敷…。この人の先祖が蘭学者で開国論者の高野長英(後藤家から高野家に養子)である。長英を講談にして読んだ一人が同じく武家出の二代伯円で「開化の魁」(高野長英・渡辺崋山)と題した作品が残されている。長英は筆禍事件で入牢、程なく牢名主となってスッテン踊り(一種の新入りいじめ)等の悪弊をやめさせたとする。これは大島伯鶴を経て二代山陽が継承していた。牢獄の陰惨な場面は「大坂(阪)屋花鳥」=島千鳥沖津白浪=にもある。
  さて、今回は長谷川伸(本名は伸二郎)が、獄中奇譚として"演芸講談界"第三巻第一号(大正八年一月)に書いた新講談「遠州屋嘉兵衛」を紹介する。嘉兵衛は天保三年十一月一日、江戸三十間堀の遠州屋嘉兵衛(初代。水呑百姓から材木問屋。侠商として知られる)の子として誕生、幼名を清三郎といった。学を好み、新井白蛾の「易学大全」も読破。安政二年九月末、釜がゴウゴウ鳴るので、易を立てると火の卦。直ちに材木を買占め、その他草履、戸板、食物等どんどん買った。人々は吃驚して、彼奴は気が触れた。その内(安政の)大地震。嘉兵衛は厄年の二五歳で二万両も儲けた(注。以下引用が長いが)−此の天災を見越しての材木買占めは河村瑞軒の事蹟に似ている、又紀の国屋文左衛門の伝奇(ママ)とは最も似ている、殊に仙台藩の原田甲斐が丁度此の井上善兵衛(注。鍋島家重臣。旧縁により藩邸の再建を嘉兵衛に依頼)の役廻りになっている、恐らくは安政の出来事を明暦に持ち込んだ、舌耕師(こうだんし)の働きではあるまいか。伊藤痴遊君が「陸奥宗光」研究の中に陸奥の父宗廣の事蹟がそっくりその儘「藤堂日記」という講談中に挿入されてあるのを発見して一驚した事がある−。二代嘉兵衛は御制禁破り(唐人への金銀売渡し)の道魁とされ、横浜本町の店から逃亡。後、山口屋幸兵衛と玉井幸太郎が捕縛されたと知り自首して入牢する。
取調べでは罪は自分のみにありと主張、玉井等を助けた。伝馬町の牢から浅草溜に移ると二番牢の名主、一番牢も兼ねる。文久二年八月の深更、大暴動があって多くの囚徒が死んだ。嘉兵衛は脱獄を阻止して聡名主を命じられる。程なく佃島の寄場に送られ、二番目の世話役、慶応三年九月の事だ。翌月、江戸払いを条件に出所。横浜の店は人手に渡っており、玉井等も冷たい態度。幸い神奈川の橘屋磯兵衛夫婦に助けられた。嘉兵衛は以前、卑しい稼業のお春の身代金まで出し、磯兵衛と夫婦にさせていたのである。両人は旧恩を謝し、仏壇には嘉兵衛の俗名を彫った位牌を置き、毎日の無事を祈っていた(注。似た様な場面は「木鼠吉五郎」=雲霧五人男=にもあって、よく知られている)。遠州屋は後に高島嘉兵衛(嘉右衛門)、天下に有名な実業家となり、また易学の大家・高島呑象としても知られた。易学の造詣を深くした発端は、異人斬りの水戸浪士が伝馬町の牢内に忘れた一冊の易書からだったという。以上は長谷川心字楼の作となっているが、明らかに長谷川伸。本名の伸二郎を心字楼としただけ、他に山野芋作、長谷川芋作等の名で新講談を書いている。高島翁の講談は親交のあった二代伯円も、「高島嘉右衛門一代記」として読んだ。二代如燕の「虎屋定兵衛」(桜田門外の変を起した水戸浪士を後援していた)では、隅の隠居で材木商・高島屋嘉右衛門。外国人に小判を売った罪で入牢したとする。易学では今でも高島を名乗る者がいるが、自称であって呑象とは何の関係もない由である。
  追記。図は掲載誌の挿絵。香雲女描く、牢名主の嘉兵衛。例によって畳が積み上げられている。
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