講談国の人びと

講談研究家・吉沢英明氏のブログです。
日本講談協会が管理運営して居ります。
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講談国の人びと(24) -遠州屋嘉兵衛-

(日本講談協会発行の「山翁えくすぷれす」にこれまで掲載しておりました、講談研究家・吉沢英明先生の「講談国の人びと」を、これよりは当ブログに掲載してまいります。)


担当:吉沢英明(講談研究家)

初代痴遊の「近世名士譚」に登場する自由民権運動の板垣退助は、暴漢に襲われた時−板垣死すとも自由は死せず−の名言?を吐いたとか。その時立会った医官が水沢出身の後藤新平で、震災(大正十二年)後の帝都復興に尽力した。綽名が大風呂敷…。この人の先祖が蘭学者で開国論者の高野長英(後藤家から高野家に養子)である。長英を講談にして読んだ一人が同じく武家出の二代伯円で「開化の魁」(高野長英・渡辺崋山)と題した作品が残されている。長英は筆禍事件で入牢、程なく牢名主となってスッテン踊り(一種の新入りいじめ)等の悪弊をやめさせたとする。これは大島伯鶴を経て二代山陽が継承していた。牢獄の陰惨な場面は「大坂(阪)屋花鳥」=島千鳥沖津白浪=にもある。
  さて、今回は長谷川伸(本名は伸二郎)が、獄中奇譚として"演芸講談界"第三巻第一号(大正八年一月)に書いた新講談「遠州屋嘉兵衛」を紹介する。嘉兵衛は天保三年十一月一日、江戸三十間堀の遠州屋嘉兵衛(初代。水呑百姓から材木問屋。侠商として知られる)の子として誕生、幼名を清三郎といった。学を好み、新井白蛾の「易学大全」も読破。安政二年九月末、釜がゴウゴウ鳴るので、易を立てると火の卦。直ちに材木を買占め、その他草履、戸板、食物等どんどん買った。人々は吃驚して、彼奴は気が触れた。その内(安政の)大地震。嘉兵衛は厄年の二五歳で二万両も儲けた(注。以下引用が長いが)−此の天災を見越しての材木買占めは河村瑞軒の事蹟に似ている、又紀の国屋文左衛門の伝奇(ママ)とは最も似ている、殊に仙台藩の原田甲斐が丁度此の井上善兵衛(注。鍋島家重臣。旧縁により藩邸の再建を嘉兵衛に依頼)の役廻りになっている、恐らくは安政の出来事を明暦に持ち込んだ、舌耕師(こうだんし)の働きではあるまいか。伊藤痴遊君が「陸奥宗光」研究の中に陸奥の父宗廣の事蹟がそっくりその儘「藤堂日記」という講談中に挿入されてあるのを発見して一驚した事がある−。二代嘉兵衛は御制禁破り(唐人への金銀売渡し)の道魁とされ、横浜本町の店から逃亡。後、山口屋幸兵衛と玉井幸太郎が捕縛されたと知り自首して入牢する。
取調べでは罪は自分のみにありと主張、玉井等を助けた。伝馬町の牢から浅草溜に移ると二番牢の名主、一番牢も兼ねる。文久二年八月の深更、大暴動があって多くの囚徒が死んだ。嘉兵衛は脱獄を阻止して聡名主を命じられる。程なく佃島の寄場に送られ、二番目の世話役、慶応三年九月の事だ。翌月、江戸払いを条件に出所。横浜の店は人手に渡っており、玉井等も冷たい態度。幸い神奈川の橘屋磯兵衛夫婦に助けられた。嘉兵衛は以前、卑しい稼業のお春の身代金まで出し、磯兵衛と夫婦にさせていたのである。両人は旧恩を謝し、仏壇には嘉兵衛の俗名を彫った位牌を置き、毎日の無事を祈っていた(注。似た様な場面は「木鼠吉五郎」=雲霧五人男=にもあって、よく知られている)。遠州屋は後に高島嘉兵衛(嘉右衛門)、天下に有名な実業家となり、また易学の大家・高島呑象としても知られた。易学の造詣を深くした発端は、異人斬りの水戸浪士が伝馬町の牢内に忘れた一冊の易書からだったという。以上は長谷川心字楼の作となっているが、明らかに長谷川伸。本名の伸二郎を心字楼としただけ、他に山野芋作、長谷川芋作等の名で新講談を書いている。高島翁の講談は親交のあった二代伯円も、「高島嘉右衛門一代記」として読んだ。二代如燕の「虎屋定兵衛」(桜田門外の変を起した水戸浪士を後援していた)では、隅の隠居で材木商・高島屋嘉右衛門。外国人に小判を売った罪で入牢したとする。易学では今でも高島を名乗る者がいるが、自称であって呑象とは何の関係もない由である。
  追記。図は掲載誌の挿絵。香雲女描く、牢名主の嘉兵衛。例によって畳が積み上げられている。
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