講談国の人びと

講談研究家・吉沢英明氏のブログです。
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講談国の人びと(27)−拳骨和尚(武田物外)−

担当:吉沢英明(講談研究家)

  講談には当然ながら上泉伊勢守、塚原卜伝、宮本武蔵以下多くの武芸者が登場する。その集大成とも称すべきものが「寛永御前試合」である。三代将軍家光の御前に全国から選ばれた武芸者が次々と現れ、歴史に残る勝負を展開する(例によって大久保彦左衛門が主要な役を演ずる)。然し虚構であって歴史的事実ではない。又岩見重太郎、真田幸村、松平長七郎、笹野権三郎…等英雄豪傑が日本中を廻国、いわゆる「旅日記」の類が無数に出版された。典型的な例が少年読物「立川文庫」(たつかわが正しいがたちかわと呼ばれて全日本を席巻)である。多くの武芸者の中には特異な人物もいた。宝蔵院胤栄は奈良・興福寺の僧でありながら、槍の名手、宝蔵院流槍術の創始者である。講談では宝蔵院覚禅坊、−仏法は釈迦に聞け、槍術は覚禅坊に問え− 、初代神田山陽や四代宝井馬琴の作品が残っている。この類では幕末の奇僧・武(竹とも)田物外も有名。大力の持主で ゲンコツ和尚 として知られている。二代旭堂南陵や二代桃川如燕その他多くの講談師によって読まれた。今回は明治の上方講談本(菊判、玉田玉秀斎講演 山田唯夫速記)に描かれた物外を紹介する。三部作の内最終編を正しく要約。然し荒唐無稽の部分が多く、全面的に信頼は出来ぬが、一つの資料として提供した。

○後の物外和尚

 −初編を「怪力無双拳骨和尚」 中編を「名誉の拳骨物外和尚」と、題し口演 (略)第三編を「後の物外和尚」と、表題を下し本日より伺い続けまする− 。物外は丹波篠山城主・青山稲葉守の御前で、同家勇士と試合をして怪力を披露。これより門下の加賀辰之助を連れ、広島の恩師、伝福寺の観光和尚に挨拶しようと、須磨村の石工・松蔵宅に立寄った。同村の漁師、実は博徒同様の勘蔵が幸太郎の娘お作に惚れ、無理矢理嫁に呉れ。そこで、辰之助が花嫁に化けて乗込んだ。親族のひとりが物外。−アハハハ 驚いたか鬼面勘蔵、我は加賀辰之助と云へる武士だ−。忽ち両腕をヘシ折ったが、子分は一人も近付けない。物外等は翌日出立。岡山、福山を経て鞆の津へ来た。尾道に向う便船が遅れて浜辺にいる両名を嘲笑。頭に来た物外は海中へザンブリ。二百五十人力の怪力、船を浜辺へ引き戻して(注。まるで立川文庫、現実的ではない!)乗った。三原、西条を通って広島に入る。文政九年二月で、不遷小僧は十四歳の時、同地を出ているから十五年ぶりである。観光も喜ぶ。勘当は許され、近く済法寺の住職になる筈。或る日、浅野家指南・加藤新八郎の道場を訪ねて談笑していると、一滴斎河内治郎(柔術の大家)と名乗る武芸者が現れ、傲慢な態度で先生と一手試合をしたい。先ず辰之助が応じ −マママイイイッタァー 。今度は物外、遂に道場荒らしは敗れて弟子を志願する。さて、住職となったが退屈。そこで道場を建て、辰之助とヤッポンヤッポン(剣術)、ドタンバタン(柔術)。続々と入門者、三百人を超えた。すると備中岡山藩の平田剛左衛門(七尺余)という豪傑が来て、力競べをしよう。物外は二十貫もある大石を片手で軽く持って(注。又しても立川文庫だ!)、これを片手で持てるなら道場へ入れてやる。直ぐ消えた。天保年間は日本中が大飢饉、雨が降らない。物外は村人から雨乞いの祈禱を頼まれる。雨乞いは成功。物外は龍神と約束した通り、自ら大梵鐘を海底へと投げ込んだ。後にこれが漁師の網に掛ったので、物外は軽々と肩で担ぎ、元の鐘楼堂へ吊り下げる。尾道・海徳寺で角力の興行。大関・御用木は物外の怪力(柱に拳骨の跡)に大驚、頭を下げた。物外は茶碗を掴んで砕く、十六俵もの米俵を一度に担ぐ…人間業ではない。辰之助に留守を頼んで上京。宿には藤堂藩の柔術指南・河村宗五郎が来て、怪力を拝見したい。余りの怪力に這々の体で逃げた。都を出て、播州三日月から深夜、白旗山を歩く。多数の野猿に襲われている婦人を助けた。愚痴の多吉(酒を飲んで旅人に難癖)を懲らしめよう、四十貫もある大石を二つ肩に引掛け(注。合わせて八十貫、真面目に読んでいられない)、これを運んでくれ。多吉も馬も駄目。心から詫びた。済法寺に戻った途端に、京の荒熊逸東太から病気であるとの手紙。再び飛び出し、明石では酒井家の家老・酒井右近の望みに任せて怪力(千石船のともづなを捩じ切る)を披露。殿は城内で引見、尾道・済法寺を酒井家の祈願所と定める。大阪に着き以前播州北条で助けた、豊後屋鶴吉の女房、町と再会してから三十石船に乗った。逸東太は重態。が、義兄弟である物外のお陰で救われる。物外と逸東太は鴨の河原で会津の武士、四十五人を皆殺しにした。会津藩は兎角朝廷に対して不埒の所置あり、青蓮院の宮も喜ぶ。晩年の物外は勤皇の大義を唱え、諸国大名の間を往来、孝明天皇の龍顔も拝した。長州内乱に際しては調停の勅命を奉じて下向することになった。然るに出発寸前、慶応三年十一月二十五日、突然遷化、毒殺されたという説もある。以上物外和尚の実歴講談はこれを以て大団円=玉田玉秀斎 大阪・此村欽英堂 明四四・十 再版。※表題に豪僧拳骨と角書。
 この御仁は歴史上の有名人で大抵の辞典類には載っている(例えば新潮日本人名辞典)。故綿谷雪が昭和五十七年七月に三樹書房から出した「考証武芸者列伝」の内『拳骨和尚武田物外』が参考になる。綿谷は別の資料を使用しているが、玉秀斎の演ずる大石二つ(八十貫)、御用木の伝承等は既に幕末には存していたようである。
 追記 筆者は花咲一男氏の仲介で綿谷蔵書の内、講談関係(ほとんど武芸物)を譲り受け、大切に保存している。他はほとんど東京大学総合図書館に寄贈されたと聞いた。図は今回紹介した速記本の表紙。本文数カ所に 貸本商 水玉堂 松本 と刻した青印が押してある。図柄にヒゲ等の落書きがある。御手洗を軽々と持ち上げる拳骨和尚。

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