講談国の人びと

講談研究家・吉沢英明氏のブログです。
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講談国の人びと(28) −新門辰五郎−

 火事と喧嘩は江戸の華… 火消しに関する講談は三代神田伯山の「日本銀次」や「野狐三次」が知られている。浪曲では現浦太郎が、先代から継承した「三次の木ッ葉売り」等 を今でも盛んに演じている。服部伸は小泉長三の新作講談「は組小町」を晩年迄読み続けていた。さて、幕末に知られたを組の辰五郎について、「新撰東京名所図絵」第三編(浅草公園 明治三〇・一)は次の如く記す。

 −新門 西方の門なり。今はなし。慶応の前後侠名を天下に轟せし新門辰五郎といふは。実にここに住せしによれり。信夫氏が新門辰五郎の伝に。辰五郎は。浅草防火丁長也。居子金龍山之新門。人呼曰新門辰。任侠自喜とあり。証すべし−。辰五郎の遺跡は浅草寺本堂西方に現存するが、その伝は極めて早い時期に講談化された。例によって講談師の作であるが、その一つが石川一口の「新門辰五郎」(吾妻侠客)である。

 一口は師の一夢と共に度々馬道にいた辰五郎(ぢいさんとルビ)を訪れ、その話を聞いて講談にした。故に出駄羅目にあらずと断じている。蔵前・黒船町で知られた煙草問屋村田屋の職人、中村屋金八(下谷山崎町に住す)の伜として生まれた。前名金太郎。後に縁家である町田仁右衛門方の養子となった。寛政十一年三月の出生。その月が辰の月に当ることから後に辰五郎と改名する。明治八年九月に七十七歳で没した。以上一口が本文で述べている辰五郎の経歴。次に彼の「創作」になる講談の概要を記す。お玉久次郎が中心で、辰五郎とお六の助力で二人が結ばれるとするのが本旨である。臥煙(火消し)としての活動や徳川慶喜との関係は終局で述べる程度、「慶応水滸伝」とも称する。


 天保十三年正月、日本橋通り三丁目の金貸し・角屋久左衛門の伜、久次郎(業平息子)は小僧の長蔵を連れ、これは内緒と馬道から北に向った。と、先方から酔払った金次、銀蔵、市九郎という三人の無頼漢。忽ち喧嘩を仕掛ける。流石は玉川上水で手水(ちょうず)を使った長蔵、市九郎のキンタマを、一生懸命にグウーッと締め上げた。が、久次郎は散々殴られて風前の灯火。そこへ −芳年が描いた近江のおかねも、二三丁手前から顔を背けて逃げ出さうと云はうか、普賢菩薩の寝起きの姿(さま)と云はうか− 実に艶麗(あでやか)な婦人、稲屋のお六が現れて助けた。新門の子分・八百屋の平兵衛、を組の喧嘩の伊八も来た。伊八は姐御、後は私等(わっちら)が引受けました、こいつ等を吾妻橋に投入れて、水雑炊を食わせましょう。見物人はお六の立ち回りにうっとりだ。早速角屋から番頭の和平次が稲屋(待合茶屋、新門の妾宅でもある)にお礼の挨拶。仕事で来ていた −当番継なぎの長半纏、襟には白抜き十番 印しは新門辰五郎、粋と意気地の伊達姿− が喧嘩の?末を話した。が、蔵前に行った筈なのに、何故馬道迄来たのか番頭には理由が分からない。久次郎は語る。元日本橋品川町に角屋の貸家があり、武蔵屋庄兵衛、おつま夫婦が住んでいた。その間に出きたのがお玉。天保五年に火事。お玉と久次郎は土蔵の中で震えていたが、その内退屈で××した(注 赤裸々で具体的には書けない)。程なく庄兵衛一家は零落、お玉は吉原で芸者、二人は去年から密かに会っている…。親には内緒、金をくすねて身請けする積りだ。番頭は呆れて言葉も出ない。処が銚子生まれの飯沼の助蔵がお玉に夢中で久次郎が邪魔、悪漢共に襲わせたのである。辰五郎牢は −番頭さんは何うか其辺処(そこんところ)はよく談合(はなし)を纏め 仮りの親でも拵へた上、夫婦交情(なか)好う末高砂や目出度う納めることこそ貴方も忠義だらうと思ひまするが− 。 

 身請けの交渉はこのを組(火消し)の辰五郎が引受けた。若旦那はい組の頭・新吉や棟梁の辰三等に守られて帰宅。助蔵は三人の「仕事」が気になるが、お玉に会おうと取り敢えず例の料理屋、朝顔へと急ぐ。−只今は其跡はございませんが、天保時代には、大変にこの朝顔が流行(はやり)まして、上等(いい)客は其都度当亭(ここ)から検番芸妓(しゃ)杯をあげて騒ぎなすッた (略) これは確かに一口(わたし)が、新門の辰五郎(おぢいさん)から直接(ぢきぢき)に承はッた話でげす− 。−新門(辰五郎)は 上野東叡山の御用請負、尋(つづ)いて伝法院のお掃除役、十番を組の頭と三役を兼帯して居りますから、浅草の門は自由自在に出入りが出来ます− 。辰五郎はお六に一杯注がせ、家を出ようとしたら幇間の桜川新孝が来た。桝見屋(検番)の天人お玉の一件である。浅草・河村屋の徳二郎、橘(立花)様の火消し部屋にいる纏の佐吉が、庄兵衛夫婦の所へ来て娘のお玉を下総(助蔵の許)へ遣れと、無理難題。どうかお玉と久次郎を一緒にさせてとの頼みだった。さて、お玉は −情夫(まぶ)の角屋の久さんか、又は銚子の助蔵か、茶屋は変らぬ朝顔の、露の乾(ひ)ぬ間の束の間の間も、二度の使を待ち詫びて、今か今かと気もそぞろ、身をば柱にもたせつつ、女心の後や先き、物思はしく襟に顔、さし俯(うつ)向いて悄然(しょんぼり)と、打ち塩垂れて居りました− 。

 朝顔から迎え。相手は開けて口惜しき玉手箱、飯沼の助蔵だった。お玉は嫌な助蔵を振放して逃走、今戸橋から南無阿弥陀仏…。背後に一人の男、コレ姐さん、待ちなせえ。橋場の破落戸(ごろつき)、金蔵院の粉屋の岩だった。岩はお玉を子分(山谷の権六)の家に預ける。翌日、辰五郎が取り返した。忽ち吉原土手で、新門と粉岩の両派が喧嘩。−いま浅草で知られたる、伝法院の裏住居、竈の烟と意気地をば、立てる新門辰五郎其子分の一人(にん)なる を組の伊兵衛と呼ばれたる小僧上りの消防夫(どぶさらひ)− 。破落戸組や粉岩の子分共が、を組の奴等を殺せ。八百屋の平兵衛は二四、五人を連れ、破落戸組に血潮の雨。遂に助蔵、粉岩等は逃亡、喧嘩は治まった。辰五郎、新孝のお陰げで目出度く落籍(ひき)祝い、お玉は稲屋に連れて来られた。直ぐい組の新吉や棟梁の辰三に知らせる。番頭の和平次は当分お玉と二親を近くの新道に住まわせ、久次郎が時折通うという事にした。金次、銀蔵、粉岩等は辰五郎の子分となって決着。助蔵は仕方なく銚子に帰った。徳二郎(目明し)は落魄して、最後は辰五郎の世話を受ける。

 天保十三年極月、筑後柳川・橘(立花)屋敷のある御徒町で火事。例の佐吉(大名火消し)と辰五郎(町火消し)が喧嘩、辰五郎は佃島の寄場送りとなった。弘化三年の大火では佃島にも飛火。辰五郎は兄弟分となった小金井小次郎と共に多くの罪人達を救い、油土蔵の類焼も防いだ。両人共目出度く帰宅。辰五郎は角屋久左衛門と和平次の勧めにより、総ての神社仏閣に十番を組新門辰五郎と記して献木(桜)、江戸市中の大評判となった。慶応戊辰に際しては、慶喜公の上洛に従い、人足頭を務める。博奕はせず、明治八年に大往生。

 以上は当人より聞いた事、且つ師匠一夢より伝えられた話を纏めて一席の講談にした=石川一口 大阪・駸々堂 明二七・三 三版。

※表題右肩に吾妻侠客と付記。丸山平次郎速記。表紙は辰五郎と愛妾の稲屋お六。ゲス言葉とスラング(卑語)が頻繁に使われている。− −の部分は引用で原本通り。但し旧字体は新字体に改めた。芝居口調が多い。







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