講談国の人びと

講談研究家・吉沢英明氏のブログです。
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講談国の人びと(29) -勝田新左衛門-

            

 「講談倶楽部」や「婦人倶楽部」で知られた講談社は大正三年、小学校の高学年向きに 「少年倶楽部」 を創刊。偉くなり度い立派な人になり度いと願望する少年諸君(注 同社の発行する東京通信にそう書いてある!)の大歓迎を受け、昭和も戦後迄発行された。戦前の同誌には当然ながら講談の影響下に書かれた新講談の類が毎号の如く掲載されている。総て昭和五年であるが、例えば新年号に○誉れの乗っ切り(武士道講談。注 阿部善四郎忠秋の隅田川乗切)=大河内翠山(注 子息が故大河内一男東京大学総長)、四月号に○天晴男兒の一念(立志講談。注 祐天上人伝)=狭間祐行、五月号に○獅子王陣幕(相撲講談。注 幕末の陣幕久五郎伝)=粟島狭衣(注 大関・綾瀬川の子。娘が大スター・栗島すみ子。親子三代が有名人とは珍) といった塩梅である。そして七月号(第一七巻第七号 昭五・七)には小説家、劇評家として知られた中内蝶二の○勝田新左衛門(目次の表題に義士講談と角書) が掲載されている。梗概を記す、

 

 赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、遠乗りを兼ねて和田の原観音に参詣。帰りは突然の雷雨で、主従五十余騎は大混乱、殿が気付くと従う者は足軽の勝田新左衛門唯一人になっていた。感激の殿は直答を許し、後日取立てると約束、その証拠として腰の印籠と刀に挿した笄(こうがい)を与え −いかやうな事があらうとも、予が取らせたことを構へて口外致すまいぞ−(注 引用は原文のママ) 。勝田は母に報告、二品 −印籠は近江八景の金の高蒔絵、又笄には同じく黄金で違い鷹の羽の(浅野家)定紋をちりばめてあります−は箱に入れて秘蔵、神棚に供えて朝夕拝することにした。さて、その年の冬母が重病、薬代が一両二分とか。勝田は是非なく印籠を城下で質入れ。お陰で母は全快する。或る夜、殿の居間に賊。お手元金や御道具が盗まれていた。奉行が密かに調べると質屋・美濃屋に殿の印籠! 賊は孝行者、忠義者と評判の勝田と判明する。直ちに捕縛、白州でお調べ。その留守に家捜しすると神棚に笄。勝田は殿との約束もあり、出所を口外しないので拷問、無理矢理爪印を押させられた。一方殿は勝田の一件を聞いて落涙 −かほどの忠臣を家来に持ったかと思ふと、予は嬉しさ余って涙がこぼれたのぢゃ− 。再吟味。勝田は殿のお許しがあったと聞き、遠乗りの一件から総てを正直に話し、青天白日の身と相成る。忠臣は孝子の門より出ず…、殿は改めて城中に召して禄高百石の御小姓頭に任じ、正宗の銘刀を下した。元禄一五年一二月、赤穂浪士の討入り。勝田は恩賜の正宗を振りかざして、華々しい功名を表した。

 

 モウお気付きの読者も多いと思うが、この挿話(拝領の印籠が後日の災い。母の命に代えられずに質入れ。死んでも口外せぬ覚悟)は「寛永三馬術」の内  筑紫市兵衛(宇都宮時代で仲間市助)伝 からの転用であって、本来の講談とは異なり中西の新作である。講談師の語り継ぐ勝田は大根売りに変じて苦労。討入り前日に立派な姿で妻子に仕官の旨を告げ、敵討の話など一切無く平然と立去る。舅の大竹重兵衛は怒るが、翌朝事実を知って仰天。娘(即ち勝田の妻)と孫を連れ泉岳寺で勝田に詫びた。以上が今でも読まれている方のあら筋である。参考に記すが八月号に○戦国豪傑双紙(武勇講談。注 亀田大隅と塙団右衛門)=鶴見欣次郎、一二月号に○意地の大蕗(教育講談。注 佐竹右京太夫義和)=鶴見欣次郎 等が掲載されている。また有名な 山岳党奇談(注 鞍馬天狗)=大仏次郎、 敵中横断三百里(日露戦争事実物語)=山中峯太郎 も連載。図は七月号の表紙(斎藤五百枝画、題して楽しき旅)と本分(挿絵は石井朋昌描く、吉良邸に討入った勝田新左衛門)の一部。

        

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